人生激辛ソムタム

風呂なしアパート20年の日々とタイ・インド

迷走人生 警備員3

1週間が過ぎると、施設警備というのは基本的に退屈なことがわかってきた。被害者が押しかけてこなければやることがない。それで自然と話をして時間をつぶすようになり、一緒に研修を受けた新人警備員5人全員が、隊長に対していい感情を持っていないことがわかった。
隊長は20代後半の肥満男で、鼻が脂肪の厚さで陥没したようになっていた。夕方に社員の女性がシュレッダーの袋を抱えて降りてくると、
「女性にこんなの持たすなよ!」と、手伝うことを指示し、「嬉しいかも」と言われて喜んでいた。別の現場で一緒になったらしい警備員が応援で加わったときは、「蟻が10匹ー、蟻が10匹ー」(蟻が10=ありがとう)と、独特の気持ち悪い言い回しで感謝を伝えていた。

意味もなく敬礼の練習をさせたり、「警備員ではなくガードマンだ」と呼びかたまで矯正させていたが、自分が新人5人によく思われていないことに気づくと、
「いま辞めて生活していけるかなあ。おばあちゃんに百万円借りてるしなあ。車の点検の費用も必要だしなあ」と言いはじめ、その2日後から姿を見せなくなった。

迷走人生 警備員2

浜松町にある小さなビルだった。色白で肥満の30代前半の男が隊長を勤めていた。そこに今回採用された新人5人と応援の1人が加わり7人で警備する。エレベーター前に2人、階段前に2人、3階ドア前に1人、役員室前に2人という体制だった。
押しかけてくる人は徒党を組んでくるわけではなく、1人か2人でやってきた。孫を連れたおばあさんのような人もいた。しかし多くの人が興奮していて、開いていないエレベーターに突っ込んだり、揉み合いになって警備員の眼鏡を床に落としたり、腹を殴ってくるような人もいた。白いロールスロイスで乗りつけたり、青森から車でわざわざやってきた右翼のような二人連れもいた。しかしマルチ商法の社員は慣れたもので、そうした一般人ではない人達がくると休憩室に通し、椅子に腰かけさせて待たせ、1時間もたった頃に、おそらく水道水と思われる偽の汗を拭きながら、
「いやいや、お待たせしてすみません!いま懸命に精査しておりまして」
 などと言いながら書類を手に現れ、正面に腰かけるや、
「こことここの数字を見ていただきたいんですが――」と、得意の口八丁で煙に巻いていた。

迷走人生 警備員1

サラリーマンを辞めて一度実家に戻った私が、再度東京に出てきたのは34歳のときだった。充分な貯えがあったうえでの再出発ではなく、早々に働き口を決めなくてはならない状況だった。ハローワークに通うことも考えたが、来月の生活費もおぼつかないいま、その時間的余裕はない。紹介状をもらって履歴書と職経経歴書を送り、面接の連絡を待ち、面接を受ければ採用か不採用かの連絡をまた待つ。失業手当がもらえていれば問題ないが、そうでなければそんな余裕はない。そこで正規雇用の道は諦め、すぐに仕事にありつけるアルバイトを探すことにした。
求人誌に目を通すと、日給10750円という仕事を見つけた。施設警備員。同じ警備員でも雨に降られると全身が濡れる交通誘導員は腰が引けたが、屋根のあるところに立つ施設警備員ならできるのではないかと思った。日給を拘束時間で割ると時給千円だったが、1日行けば1万円以上になる。電話すると面接の日時を言われ、行くと採用された。
もらっていた地図を頼りに現場に行き、そこではじめて警備の内容がわかった。マルチ商法で詐欺に引っかかった人達が、騙し取られた金を取り戻そうと押しかけてくるのを追い返す。面接でも研修でもそんな説明は一切なく、現場に来てはじめて知った。犯罪者を被害者から守ることに良心の呵責を感じたが、日給10750円の魅力には勝てず、仕事と割り切り働くことにした。

西荻窪のアパート

再度東京に出ると決めたとき、どこに住もうかと考えた。毎週のように見ていたアド街ック天国で、なぎら健壱が京成線沿いを飲み歩いていて、昔ながらの人情や情緒が残っていると言っていたことを思い出した。

花茶屋は駅名から良さそうに思ったが、実際に歩いてみると人が少なく、見かけても年寄りだった。アパートも多くなさそうに見えた。別の駅でも降りてみたがたいして変わらず、京成線沿いはやめた。

次に向かったのは中央線だった。大学時代に高円寺から三鷹にかけて友人たちが住んでいて、酒を飲んで泊まるたびに住みやすそうなところだと思っていた。

阿佐ヶ谷駅前の不動産屋で、東中野・四畳半・風呂なし・2万5千円という貼り紙を見つけた。なかを見たいと言うと、鍵はかかっていないから自由に見てきてと地図をわたされた。鍵が必要ないってどんなところなんだ?行ってみると意外にきれいだったが、四畳半は思った以上に狭い。家具やテーブルを置いたら寝る場所がない。駅を降りては不動産屋をまわったが、大学生だった10年前と比べ風呂なしアパートは減っていて、選ぶ以前に物件がない。それでも探すしかない。風呂のある部屋に借りる余裕はなかった

「風呂なしの部屋は一回入ると出ないから。でも、ないことはないと思うから頑張って」

そんなこと言われた翌日、西荻窪で管理費込みで3万6千円という部屋を見つけた。案内してもらうと外壁にひびが入って小汚く、ここは嫌だなと思うようなところだった。その時点で帰ってもよかったが、不動産屋が大家に鍵を借りに行ったのでしかたなくなかに入った。すると昔サイズの広い六畳のフローリングで、キッチンもありガス湯沸かし器も備わっている。トイレも洋式だ。これは思わぬ拾いものかもしれないと気持ちが高ぶった。

独居日乗 2.28(金)

タイにはじめて行った31歳のときと翌年の32歳のときは、なにをどう撮ればいいかわからなかった。カメラを入れたバッグを持ち歩くだけで、1枚のシャッターを切れない日もあった。怒られたらどうしようという思いばかりが先に立ち、人にカメラを向けることができなかった。

35歳のときにタイに3か月滞在し、そのときから少しづつ撮れるようになった。夜の世界で生きる女たちやカレン族の難民家族のもとに通った。

撮った写真が貯まってくると、写真集を出したいと考えはじめた。本が出れば人生が好転するだろうと、いくつかの出版社に持ち込んでみたがうまくいかなかった。

本がだめなら写真展しかない。そう思いニコンやキャノンのギャラリーの審査を受けた。貧乏のなかで審査を受けるためだけに10万円近くのプリント代は払えず、安いところで3万円であげた。仕上がった写真は色が悪く安いなりのものだったが、写真自体は社会派雑誌の公募で著名な写真家に褒められたこともあって自信があった。

しかし受け取ったのは落選の通知だった。納得できず、プリントを取りに行ったとき理由を訊くと、「内容だけでなくプリントを含め全体が審査の対象」と言われた。

自費出版も考え、写真を見てもらいもしたが最良な方法とは思えず、手詰まり状態が何年も続いていたが、金村修の本で気が晴れ、新たな気持ちでまた写真の本や雑誌に手が伸びるようになった。調べてみると昨今は写真ギャラリーも増え、レンタル料が必要なところでは、審査のプリントを金をかけて用意しなくていいことがわかった。

そんなことは写真の学校に通っていれば二十歳の人でも知っていることなのだろう。

独居日乗 2.13(木)

「斬進快楽写真家」にこんな一文があった。

「16歳からずうっと強烈なものばかり会ったり、見たりしていたから、今さら自分はもう元の世界には戻れない」

同じだと思った。サラリーマン8年目の夏休みに偶然が重なりバンコクに行った。そのときの体験がまさに「強烈なもの」だった。

目と鼻の先のステージで性を誇示して踊るおおぜいのダンサーたち。迷い込んだ真っ暗なゴーゴーで女たちに囲まれながらした小便。女をおぶって上がったアパートの階段。行き先もわからず乗ったバス。体にまといつくような湿気と暑さと騒音と匂いと暗闇。探し続けていた場所を見つけたように思った。

10日にも充たない滞在だったのに、帰国後は書類を処理して一日が終わる人生には戻れなくなっていた。4か月後に会社を辞めた。

あれから22年。いまもタイに通っている。

独居日乗 2.3(月)

「世界旅写真展」の審査結果が届く。最終選考まで残って落とされていた。がっかりだが、肉筆で書かれたコメントに少し光明が見えた。

「~ あまり見ない被写体(鳥と人)も魅力的です。あとはこれを活かすのは何よりプリントです。勿体なく思いました ~」

プリントが良ければ最終選考を通過したのかまでは不明だが、人が撮らないものを撮ることの大切さとプリントの重要性がわかった。

図書館から金村修の「斬進快楽写真家」を借りて読む。以前ならたぶんわからなかったと思うことがいまは理解できる。誰かに付いて修行したり学校で学ぶことなくきたので基礎がない。他人の写真に触れる機会も少ない。それらがいまの停滞につながっている。

長くフィルムで撮ってきた。ポジをデータ化しなければと思いながら5万円近くするため躊躇していた。

昨日フィルムスキャナーを注文した。